水木しげるの妖怪研究と代表作
水木しげるの妖怪研究と代表作
妖怪漫画の第一人者・水木しげる(1922-2015)の生涯と研究者としての功績を整理。鳥山石燕・柳田國男の継承、妖怪画の体系化、1995年設立の世界妖怪協会まで、現代の妖怪ブームを支えた仕事を概観する。
水木しげる(本名・武良茂、1922-2015)は、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者として知られる漫画家でありながら、在野の妖怪研究家・蒐集家としても独自の位置を築いた人物です。
幼少期にのんのんばあから聞いた妖怪話と、ラバウルで左腕を失った戦争体験が、その妖怪観の骨格を形づくりました。
さらに水木の仕事は、鳥山石燕の妖怪画と柳田國男らの民俗学を継ぎつつ、文字や伝承だけだった妖怪に決定的な絵を与えて体系化した点に特色があります。
1995年の世界妖怪協会設立や1968年のアニメ化による妖怪ブームまで見通すと、水木は現代の妖怪文化に必要な土台を作った人物だとわかるでしょう。
水木しげるとは何者か:漫画家であり妖怪研究家
水木しげるは、本名を武良茂といい、1922年3月8日に大阪市で生まれ、鳥取県境港市で育った。
2015年11月30日に93歳で没したが、その名は今も『ゲゲゲの鬼太郎』の作者、そして妖怪漫画の第一人者として強く記憶されている。
けれども水木の本質は、作品を生み出した漫画家という顔だけでは捉えきれない。
世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員を歴任した在野の妖怪研究家・蒐集家でもあり、この二つの顔が切り離せないところにこそ特異さがあります。
「ゲゲゲの鬼太郎」の作者という顔
『ゲゲゲの鬼太郎』の作者という肩書は、水木しげるを最も広く知らしめた入口です。
1960年に貸本版として現れ、1968年のテレビアニメ化で一気に妖怪ブームを押し広げたこの作品は、単なる娯楽作品にとどまりませんでした。
子ども向けの物語として親しまれながら、古い伝承の妖怪たちを現代の視覚表現に載せ直し、読者の記憶に残る形へ定着させたからです。
境港市の水木しげるロードに並ぶ妖怪ブロンズ像を見ると、伝承上の存在が地域の風景として共有されていることが実感できるでしょう。
水木の仕事は、妖怪を「読まれるもの」から「見分けられるもの」へ変えた仕事でもありました。
在野の妖怪研究家・蒐集家という顔
ただし、水木しげるの核心は描くだけではなく、徹底して調べる姿勢にあります。
妖怪事典を開くと、一体ごとに出典や伝承地が添えられているはずで、それは制作の前に資料を集め、地域差を確かめ、絵にする責任を引き受けた研究者の手つきです。
古典に図像が残るものは鳥山石燕の流れを手がかりにし、文字や言い伝えしか残らない子泣き爺、砂かけ婆、ぬりかべ、一反木綿には、まず輪郭を与えました。
柳田國男や井上円了の民俗学的な蓄積も視野に入れながら、在野の蒐集家として各地に散った妖怪像を拾い集め、つなぎ直したのである。
ℹ️ Note
現代人が思い浮かべる妖怪の姿の多くは、水木しげるの図像を経由している。見え方そのものを形づくった、という評価は誇張ではありません。
本記事で扱う範囲
本記事では、作品のあらすじを追うことよりも、研究者・蒐集家としての水木しげるが日本の妖怪文化に何を残したのかを中心に見る。
世界妖怪協会の設立や『怪』をめぐる在野研究のネットワーク化、そして『ゲゲゲの鬼太郎』の広がりがどう結びついたのかを押さえると、水木の二面性は単なる経歴の並列表記ではなくなる。
漫画家と妖怪研究家、その両方がそろって初めて、今日の妖怪像が立ち上がったのです。
読者はまずここを起点に、次の章へ進んでみてください。
生涯と妖怪との出会い:のんのんばあから戦争まで
水木しげるの妖怪観は、幼少期に景山ふさ、のんのんばあから聞いた妖怪話と、太平洋戦争での従軍体験という二つの原体験から形づくられた。
前者は見えない世界を子どもにとって身近なものにし、後者は生と死の境界を実感させた点で、のちの創作と研究の芯になっています。
だからこそ水木の妖怪は、空想ではなく、生活と記憶のなかで育った存在として読めるのです。
「のんのんばあ」が語った妖怪の世界
幼少期の水木は、家に出入りしていた拝み屋の妻・景山ふさ、のんのんばあから妖怪やあの世の話を聞いて育ちました。
ここで面白いのは、妖怪が単なる怖い話ではなく、子どもが世界を理解するための枠組みとして働いていたことです。
『のんのんばあとオレ』を読むと、その空気はよく伝わります。
怪異は遠い伝承ではなく、身の回りの出来事に意味を与える語りとしてあり、水木の出発点はまさにそこにあったとわかるでしょう。
のんのんばあの語りが後年『のんのんばあとオレ』として作品化されたことも、その重要性を物語ります。
思い出話にとどまらず、創作の核として繰り返し掘り下げられたからです。
水木が妖怪を描くとき、単に種類や形を並べたのではなく、暮らしのなかで実感された「向こう側の気配」を絵にした、そう読めます。
ラバウル従軍と左腕の喪失
太平洋戦争で水木しげるは大日本帝国陸軍の兵士としてニューギニア戦線・ラバウルに出征し、米軍の攻撃で左腕を失いました。
生死の境を体験したこの従軍は、戦争の記憶としてだけでなく、生命観・他界観を深く揺さぶった出来事として位置づけるべきです。
妖怪や死者の世界を語るうえで、実際に死が目前に迫った経験ほど重い背景はないからです。
『水木しげるのラバウル戦記』に触れると、その重みはさらにはっきりします。
左腕を失っても描き続けた背景には、失われたものへの執着というより、むしろ生き延びた者の視線があるのだと感じられます。
戦場で見たものが、その後の作品に漂う淡々とした死生観を支えている。
おすすめです、と言いたくなるほど、この一冊は水木の世界を理解する手がかりになります。
紙芝居・貸本時代の下積み
復員後の水木しげるは、すぐに漫画家として名を成したわけではありません。
紙芝居作家、貸本漫画家として長い下積みを重ね、1957年『ロケットマン』でようやくデビューしました。
ここが重要なのは、妖怪を主題に据える以前に、表現者として厳しい修業期間を経験していることです。
描く技術も、読者の目をつかむ構成も、現場で身につけたのでしょう。
この下積みは、後年の妖怪表現の説得力にも直結します。
伝承をただなぞるのではなく、紙芝居で培った見せ方と貸本で鍛えた持久力があったからこそ、妖怪は一枚絵の怪異ではなく、物語のなかで生きる存在になったのです。
『のんのんばあとオレ』や『水木しげるのラバウル戦記』と並べて読むと、幼少期の体験と戦争体験、そして下積みの年月が一本につながって見えてきます。
読者もここを押さえてみてください。
水木の妖怪観は、机上の知識ではなく、生活と死線の両方から鍛えられたものだと実感できるはずです。
鳥山石燕と柳田國男:水木が継承した先行研究
鳥山石燕と柳田國男、井上円了は、水木しげるの妖怪研究を支えた二つの大きな柱でした。
水木は独自性だけで妖怪を立てたのではなく、古典の図像と近代民俗学の蓄積を受け継ぎながら、そこに自分の絵と整理の手つきを重ねていったのです。
だからこそ、彼の妖怪画は単なる創作ではなく、出典と系譜を持つ像として読めます。
鳥山石燕『画図百鬼夜行』の図像を引き継ぐ
水木しげるの妖怪画は、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』など古典の妖怪画を参照しながら描かれました。
古典にすでに姿があるものは、まずその図像の骨格を尊重する。
ここに、水木の仕事の出発点があります。
顔つき、姿勢、持ち物、輪郭の切り取り方まで、先行する絵が持っていた見え方を受け止めたうえで、現代の読者にも読める線へと引き直しているのです。
『画図百鬼夜行』の図版と水木の同じ妖怪の絵を並べて見ると、構図やモチーフが連なっていることがはっきりわかります。
この継承は、単なる模写ではありません。
石燕の絵が残していた「こう見えるべきだ」という型を踏まえることで、水木の妖怪画は空想の産物ではなく、古い図像文化の延長として説得力を持つからです。
出典のある姿で描かれていること自体が、創作キャラクターと線を引く根拠になる。
そこが面白いところでしょう。
柳田國男・井上円了の民俗学的研究を吸収
造形面で石燕を引き継いだ水木は、妖怪の中身については柳田國男や井上円了らの先行研究を吸収しました。
さらに、古い文献・古文書・絵巻から伝承と妖怪画を丹念に蒐集していった点が重要です。
水木は見た目だけを整えたのではなく、どの地方でどんなふうに語られてきたか、何が文字として残り、何が絵として残ったのかを確かめながら妖怪を組み立てた。
エンタメ作家でありながら、学術的な裏取りを欠かさなかった手つきがここにあります。
柳田國男や井上円了の妖怪論にあたると、水木が文章の記述からどう造形を起こしたのか、その翻案の過程が見えてきます。
言葉だけの説明を、そのまま読ませるのでは足りない。
顔、手足、姿勢、質感を与えることで初めて、伝承は読者の前に立ち上がるのです。
研究者としての水木の仕事は、資料を集めることと、それを絵にすることが一続きだったと考えると理解しやすいでしょう。
「絵が残っている妖怪」と「言い伝えだけの妖怪」
水木は妖怪を、古典に画が残っているものと、文字や言い伝えしか残っていないものに分けて扱いました。
前者については石燕らの図像を尊重し、後者については記録の断片から輪郭を立ち上げる。
そうした整理の仕方が、次章で述べる独自の体系化につながっています。
つまり水木の妖怪観は、すべてを同じやり方で描くのではなく、残された証拠の種類に応じて態度を変えるところに特徴があるのです。
この区別があるから、水木の妖怪画には無理がありません。
絵として残るものは絵の系譜に従い、言い伝えだけのものは伝承の記録に忠実に形を与える。
先人の蓄積を踏まえたからこそ、彼の絵は「昔からこうだった」と感じさせる強さを持ちます。
読者が水木の妖怪に納得するのは、そこに出典の重みが宿っているからではないでしょうか。
妖怪画の体系化:文字記録を「絵」に固定した功績
水木しげるの妖怪画の核心は、文字や言い伝えだけで伝わっていた存在に、誰もが共有できる輪郭を与えたことにあります。
子泣き爺、砂かけ婆、ぬりかべ、一反木綿のように古典の画が残らない妖怪を初めて絵として示し、その姿を現代の記憶に定着させたのです。
しかもそれは思いつきの造形ではなく、伝承の断片をたどって形を起こす作業でした。
言い伝えだけの妖怪に姿を与える
ぬりかべや一反木綿の伝承記録を実際に探すと、文字だけの記述が驚くほど少ないことに気づきます。
だからこそ、水木しげるが少ない手がかりから輪郭、質感、動きまで立ち上げた意味は大きい。
言葉でしかなかったものが、絵になった瞬間に初めて共有可能な像になるからです。
妖怪はここで、語り伝えられる存在から、見分けられる存在へ変わりました。
この仕事は創作の自由さよりも、伝承記録への忠実さに支えられています。
子泣き爺、砂かけ婆、ぬりかべ、一反木綿が今では「こういう姿だ」と誰もが思い浮かべられるのは、水木が恣意的なデザインではなく、断片的な証言から文化の記憶を拾い上げたからでしょう。
文字の世界に閉じていた妖怪を、図像として定着させた功績はここにあります。
『日本妖怪大全』など事典としての仕事
水木の仕事は、一体ずつ絵を描いたところで終わりませんでした。
『日本妖怪大全』『水木しげるの妖怪事典』(正・続)『水木しげるの世界妖怪事典』などを著し、各地に散らばっていた妖怪を網羅的に整理・体系化した点に、研究者としての真価が表れます。
蒐集したものを分類し、編纂し、参照できる形にまとめ直したのである。
『日本妖怪大全』を通読すると、その印象は図鑑よりも研究成果の集成に近いとわかります。
一体ごとに伝承地や出典が添えられ、絵が単独で立っているのではなく、記録の束に支えられているからです。
実際に読むと、妖怪の名前を覚える本ではなく、どこで何がどう語られてきたかを見渡すための本だと実感できます。
ここで妖怪は、ばらばらの怪異ではなく、整理可能な知識体系として見えてくるのです。
なぜ水木の絵が「定番」になったのか
水木の妖怪画が定番化した理由は、見た目の面白さだけでは説明できません。
伝承に忠実であろうとする姿勢が、絵に余計な説明臭さを与えず、むしろ「昔からこうだった」と感じさせる強さを生んだからです。
文字情報を共有可能なイメージへ変換し、事実上の標準図像を作ったことが、現代の妖怪像を決めました。
ぬりかべや一反木綿のように、もともと記述が乏しい妖怪ほど、その効果は鮮明です。
絵が先に立ち、あとから読者が伝承をたどる順序が生まれると、像はただの挿絵ではなく基準点になる。
水木の図像が多くの人の記憶に残るのは、創作と研究の境界線上で、記録の少なさを補う形で説得力を獲得したからではないでしょうか。
こうした標準化が起きたからこそ、今日の妖怪文化は同じ姿を思い浮かべながら語り合えるようになっています。
世界妖怪協会と在野研究のネットワーク化
1995年、水木しげるは世界妖怪協会を設立して会長となり、妖怪研究を個人の蒐集から組織的な営みへ押し広げた。
荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員として加わったことで、在野の知見が点ではなく線としてつながり、妖怪を語る場そのものが更新されたのである。
ここで起きたのは単なる親睦ではない。
研究者、作家、蒐集家が同じテーブルにつき、伝承と創作の往復運動を共有する枠組みができたことが画期だった。
1995年・世界妖怪協会の設立
1995年の世界妖怪協会設立は、水木しげるが自分で描き、自分で集めてきた妖怪の世界を、後続が引き継げる形に変えた出来事だった。
会長としての役割は名誉職にとどまらず、妖怪をめぐる関心を散発的な個人研究から継続的な共同作業へ変える推進力になっている。
個人の蒐集が膨大であるほど、次に必要になるのは整理し、語り、検討する場だ。
その要請に応えたのが、この協会である。
水木の仕事の強みは、資料を抱え込むことではなく、広げることにあった。
世界妖怪協会はその姿勢を制度化したもので、妖怪研究を「誰か一人の到達点」から「みんなで更新する知のかたち」へ移したと見るとわかりやすいでしょう。
ここから先、水木の図像や記録は単独で完結せず、荒俣宏、京極夏彦、多田克己らの仕事と結びついて読み継がれていく。
まさにネットワーク化の起点だ。
荒俣宏・京極夏彦ら次世代との協働
荒俣宏、京極夏彦、多田克己ら次世代の研究者・作家が会員となった意味は、世代交代の演出ではなく、妖怪文化の担い手を複線化したことにある。
水木一人が妖怪を描き続ける時代から、複数の書き手がそれぞれの関心で妖怪を掘り下げる時代へ移ったとき、伝承ははじめて持続的に生きる。
荒俣宏は博覧の広がりを、京極夏彦は物語化の強度を、多田克己は調査と整理の視点を加え、そこに水木の蓄積が接続された。
この協働を追うと、水木の影響が単なる模倣ではないことがよく見えてくる。
荒俣宏や京極夏彦の妖怪関連の仕事をたどれば、水木の図像や整理法を受け取りながら、各自が別の方向へ発展させているのがわかるはずだ。
そこで生まれるのは、師から弟子への一方通行ではなく、互いに参照し合う知の循環である。
おすすめです。
資料を並べて見比べてみてください。
| 会員・関係者 | 役割の軸 | 協働で生まれた効果 |
|---|---|---|
| 水木しげる | 会長・基盤の提供 | 妖怪研究の場を組織化した |
| 荒俣宏 | 博覧・横断 | 伝承と周辺知識の接続が広がった |
| 京極夏彦 | 物語化・再解釈 | 妖怪像が現代文学の文脈で再編された |
| 多田克己 | 調査・整理 | 断片的な知識が比較しやすくなった |
妖怪マガジン『怪』と研究の発信
世界妖怪協会の活動を実際に見える形にしたのが、世界妖怪会議と、1997年から刊行された公認の妖怪マガジン『怪』(角川書店)だった。
会議での議論をその場限りで終わらせず、雑誌という継続媒体に載せたことで、妖怪研究は記録され、再読され、次の議論へ渡されるようになった。
ここが肝心です。
集まった知見を発信へ変える装置ができたからこそ、在野の研究は一過性で終わらなかったのである。
『怪』のバックナンバーをたどると、研究論考と創作、対談が同居しているのがわかる。
学術的な民俗学と、漫画・小説などのエンターテインメントが同じ誌面で交わることで、妖怪は「研究される対象」であると同時に「物語として更新される対象」になった。
もし資料探訪をするなら、まずこの雑誌を起点にしてみてください。
協会が目指した越境のかたちが、紙面の構成そのものから見えてくるはずです。
読者にとっても、妖怪文化がなぜ今日まで厚みを保っているのか、その理由がつかみやすくなるでしょう。
ℹ️ Note
『怪』を読むと、妖怪研究は孤立した専門領域ではなく、創作と対話しながら育つ場だと実感できる。ここに、水木しげるが残した仕組みの強さがある。
代表作の概説:研究成果が結実した作品群
水木しげるの代表作は、貸本版『墓場鬼太郎』から『ゲゲゲの鬼太郎』へ展開し、1968年のテレビアニメ化で広く共有される像へ変わったところに特徴があります。
ここで見えるのは、単なる人気作の連続ではなく、妖怪研究で得た知識が作品として結晶していく流れです。
『悪魔くん』『河童の三平』も含めて並べると、妖怪や異界を描く物語群そのものが、研究成果の発表媒体として機能していたことがわかります。
『墓場鬼太郎』から『ゲゲゲの鬼太郎』へ
1960年に貸本版『墓場鬼太郎』が発表され、その後『ゲゲゲの鬼太郎』として展開し、1968年にテレビアニメ化された。
この系譜をたどると、作品は最初から国民的キャラクターだったわけではなく、貸本時代の濃い怪奇性を土台に、時代に応じて見せ方を変えながら広がっていったことが見えてきます。
読み比べると、暗い気配を帯びた初期像が、より開かれた娯楽作品へ移っていく過程を追えるでしょう。
ただし、この変化をあらすじの変形としてだけ見るのは惜しい。
水木しげるにとって重要だったのは、妖怪を物語の飾りにせず、蒐集した伝承や研究の成果を作品の内部に組み込むことでした。
『墓場鬼太郎』から『ゲゲゲの鬼太郎』への展開は、その成果が読者に届く回路が広がった出来事だと考えると腑に落ちます。
国民的作品になった理由は、妖怪を古びた伝説ではなく、今も読める形に置き直したからではないでしょうか。
『悪魔くん』『河童の三平』とその他の作品
ほかの代表作として『悪魔くん』『河童の三平』があり、いずれも妖怪・異界を主題としています。
ここで注目したいのは、題材の幅ではなく、同じ関心が異なる物語形式で反復されている点です。
『悪魔くん』では異界との接触が前景化し、『河童の三平』では水辺の怪異が具体的な姿を持って現れる。
いずれも、蒐集した伝承の知識が細部に活かされているからこそ、作品と研究が分かちがたい関係にあると読めます。
作品を読み比べると、創作のために研究したのではなく、研究してきたからこそ創作の幅が広がったのだと実感できます。
妖怪の名前や姿かたちだけでなく、気配や場の空気まで描けるのは、知識が物語の外側に置かれていないからです。
おすすめです。
『墓場鬼太郎』と並べて手に取ってみてください。
研究が作品の骨格になっていることが、かなりはっきり見えてきます。
受賞歴に見る社会的評価
社会的評価として、1965年に講談社児童まんが賞、1989年『コミック昭和史』で講談社漫画賞を受賞しました。
初期には子ども向け漫画として評価され、後年には社会の記憶を描く仕事として評価軸が広がっていった流れです。
年代順に並べると、妖怪漫画の作者という枠を越え、幅広い画業が認められていったことが読み取れます。
晩年にかけては1991年紫綬褒章、2003年旭日小綬章、2007年アングレーム国際漫画祭最優秀作品賞(『のんのんばあとオレ』、日本人初)、2010年文化功労者と評価が積み重なりました。
ここまでを眺めると、受賞の内容そのものが時代の変化を映しています。
妖怪を描く漫画家から、研究と創作の双方が公的に認められた人物へ。
社会の妖怪観もまた、その過程で変わっていったのです。
読者は受賞歴を単なる栄誉の列ではなく、作品が文化的功績として認識されていく軌跡として見てみてください。
現代の妖怪ブームに与えた影響
1968年のテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』は、妖怪を子ども向けの娯楽として日常へ引き寄せ、全国的な妖怪ブームを生みました。
そこから始まる流れの中で、水木しげるは妖怪を「懐かしい伝承」ではなく、図像と事典で確認できる文化として再配置したのです。
現代の妖怪文化がエンターテインメントとアカデミズムの両方で厚みを持つのは、その土台が水木の仕事にあるからでしょう。
アニメ化と第一次妖怪ブーム
1968年にテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』が放映されると、全国的な妖怪ブームが起きた。
それまでのアニメはヒーローものが中心でしたが、ここでは「妖怪」と「墓場」が前面に出たため、子どもたちにとって妖怪が急に身近な話題になったのである。
怖いだけの存在ではなく、毎週テレビで会える存在になった点が決定的でした。
この変化は、単に人気作が生まれたという話ではありません。
妖怪が家庭のテレビ画面に入り、学校や遊びの場で語られるようになると、伝承は急に古びた知識ではなくなります。
人々が同じ姿の鬼太郎や妖怪たちを共有できるようになったことで、妖怪は記憶のなかの曖昧な影から、日常の会話に乗る文化資源へ変わったのです。
ここが第一次妖怪ブームの核心です。
妖怪文化の「再発見」を促す
高度経済成長期以降、いったん忘れられかけた妖怪が再び脚光を浴びた「妖怪再発見」は、水木の存在に負うところが大きい。
彼は図像と事典によって妖怪を可視化し、ばらばらに残っていた伝承を見渡せるかたちへまとめた。
姿が見えるからこそ、読者は妖怪を「知った気」ではなく、「確かに確かめられる対象」として受け止められるようになります。
展覧会やゲーム、創作物に触れると、その多くが水木の図像や分類を出発点にしていることに気づく場面があります。
学術書とエンタメ作品を並べて見ると、両者の境界は思いのほか緩やかで、水木以降の日本独自の文化状況がそのまま見えてくる。
妖怪を調べることと楽しむことが、同じ土俵で往復するようになったのです。
おすすめです。
こうした並びで見比べてみてください。
後続の研究者・創作者への影響
現代の妖怪文化は、学術的なアカデミズムとエンターテインメントが密接に結びついている点に特徴がある。
これは世界妖怪協会に象徴される水木の越境的な営みが残した枠組みの延長線上にある。
研究者は資料を精査し、作家は物語へ変換するが、その往復を可能にした共通基盤がすでに整っていたわけです。
後続の研究者・創作者は、水木が整備した図像・事典・ネットワークという土台の上で仕事を展開している。
つまり水木は一作家にとどまらず、現代妖怪文化のインフラを築いた人物だといえる。
今ある妖怪作品を読むとき、その背後に水木の分類や見せ方が息づいていることに気づくはずです。
そこを押さえてみてください。
妖怪文化の現在形が、より立体的に見えてきます。
民俗学を専攻し、日本各地の妖怪伝承をフィールドワークと古典文献の両面から研究。『今昔物語集』『画図百鬼夜行』等の原典にあたった解説を信条とします。
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