遠野 嘉人
民俗学研究者・妖怪伝承ライター
民俗学を専攻し、日本各地の妖怪伝承をフィールドワークと古典文献の両面から研究。『今昔物語集』『画図百鬼夜行』等の原典にあたった解説を信条とします。
大学で民俗学を専攻。柳田國男・水木しげる研究を軸に日本各地の妖怪伝承をフィールドワークで調査。
遠野 嘉人の記事 (10)
浮世絵の妖怪|国芳と幽霊画の系譜
浮世絵に描かれた怪異は、江戸後期から明治にかけて大きく妖怪画と幽霊画の二系統に分かれた表現である。自然や器物、動物に由来する異形を描く妖怪画は、安永5年(1776年)の鳥山石燕画図百鬼夜行によって、言葉だけだった妖怪を目に見える姿へと押し出した。
四国の狸伝説と怪異|三名狸と化かしの民俗
四国は、狐よりも狸が怪異を担う土地として語られてきた地域である。屋島寺の蓑山大明神、阿波の金長狸、伊予の隠神刑部という名が並ぶだけでも、その伝承の密度は群を抜いている。実際、タヌキ火やあずき洗い、嫁入り行列まで狸のしわざとして受け止められ、なぜ四国だけが「狸の国」になったのかという問いが生まれてきた。
円山応挙の幽霊画と足のない幽霊の起源
日本の幽霊像は、白い経帷子、乱した長い黒髪、腰から下が消える姿という三つの要素で江戸時代に固まった表現である。円山応挙(1733年生)をこの定型の始点とみなす通説は広く知られるが、実際には1673年の古浄瑠璃花山院きさきあらそひの挿絵に、すでに足のない幽霊が描かれている。
江戸の妖怪ブームと黄表紙が生んだ化物文化
江戸時代の妖怪ブームとは、安永・天明期(1770〜80年代)に、畏れの対象だった妖怪が娯楽キャラクターへと性格を変えた文化現象である。鳥山石燕の画図百鬼夜行(1776年)が火付け役となり、名前と絵をそろえた図鑑形式の面白さが評判を呼んだことで、妖怪はまず見るもの、そして読むものへと広がっていきました。
落語の怪談噺と牡丹灯籠|カランコロンの怪異
牡丹灯籠は、四谷怪談番町皿屋敷と並ぶ日本三大怪談の一つで、落語・歌舞伎・映画へと受け継がれてきた悲恋の怪異譚です。幽霊のお露が牡丹の灯籠を提げ、カランコロンと下駄を鳴らして夜ごと通う場面は、この物語を最も強く印象づける場面でしょう。
能・狂言の鬼と霊—般若と亡霊の演目
能と狂言は、同じ能舞台で上演される姉妹芸能ですが、鬼と霊の描き方はきわめて対照的です。能では敦盛や清経に見られるように、戦で修羅道に落ちた武将の亡霊や、鬼神・龍をめぐる存在が、世阿弥が大成した様式のなかで恐ろしくも哀れな主役として舞い、最後は弔いによって鎮められます。
歌舞伎の怪談物|四谷怪談と妖怪の系譜
歌舞伎の怪談物は、怨霊・幽霊・妖怪が舞台に現れて人々を震え上がらせる、江戸歌舞伎の重要なジャンルである。文化・文政期に夏の定番として定着し、とりわけ四代目鶴屋南北が1825年に書いた東海道四谷怪談が、その系譜を決定づけた。
妖怪と仏教の六道:地獄・餓鬼・畜生はどこから来たか
六道は、衆生が業に応じて地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つの世界を生まれ変わり続ける世界観であり、日本の妖怪を読み解くうえで最初に押さえるべき土台です。鬼や餓鬼、火車のように仏教由来と語られる存在も、点で追うだけでは姿がぼやけます。
夏に怪談が定番になった理由と歴史
夏に怪談が定番化したのは、単に「お盆だから」ではなく、江戸時代に芝居興行・信仰・遊戯文化という三つの源流が合流した結果です。夏の歌舞伎座や寄席で四谷怪談や牡丹燈籠を見て、原典の東海道四谷怪談や円朝の速記本まであたると、通説のような一枚岩の説明では足りないことがはっきりします。
鬼門と妖怪|陰陽道が生んだ方位の怪異
鬼門とは、北東の方位を指す言葉で、鬼の出入口を意味した古代中国の地理観が日本で陰陽道と結びついて発展したものである。鬼が牛の角と虎の褌をまとって描かれるのは、丑寅の方角と結びついた造形だからで、まずここに方位が妖怪の姿を決めたという逆説があります。