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ダイダラボッチとは|巨人伝承と正体の謎

更新: 遠野 嘉人
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ダイダラボッチとは|巨人伝承と正体の謎

ダイダラボッチは、日本各地に伝わる巨人で、山を盛り上げ、湖沼の窪地を残したと語られてきました。民俗学のフィールドワークで各地の「足跡」とされる湖や窪地を歩くと、同じ巨人像が土地ごとに少しずつ姿を変えていることがはっきり見えてきます。

ダイダラボッチは、日本各地に伝わる巨人で、山を盛り上げ、湖沼の窪地を残したと語られてきました。
民俗学のフィールドワークで各地の「足跡」とされる湖や窪地を歩くと、同じ巨人像が土地ごとに少しずつ姿を変えていることがはっきり見えてきます。
柳田國男が『大太郎法師(だいだらほうし)』の語源説を示したように、呼び名も由来も一つではなく、デイラボッチ、オイダラボッチ、さらにたたら製鉄に通じるとする説まで重なり合っています。
最古級の記録は奈良時代の『常陸国風土記』に見え、古代から続く巨人信仰として読み解くと、この存在がなぜ各地で語り継がれたのかが見えてくるのです。

ダイダラボッチとは何か|山と湖をつくった巨人

ダイダラボッチは、日本各地で語られる巨人伝承の総称であり、山を盛り上げ、湖沼に窪みを残したとされる地形創造譚を核にしています。
特定の一体の妖怪というより、土地ごとに姿や性格を変えながら伝わってきた存在だと押さえると、全体像が見えやすくなります。
湖のほとりで古老から「ここは巨人が腰かけた跡だ」と聞くと、窪んだ地形そのものが記憶の器になっていることがわかるでしょう。
別の土地ではまったく違う性格で語られており、ひとつの名前に多様な物語が束ねられている点も、この伝承の面白さです。

『巨人がつくった地形』という共通モチーフ

ダイダラボッチの伝承でまず目を引くのは、地形そのものを巨人の身体運動で説明する発想です。
湖は足跡、山は背負っていた土の落とし物として語られ、土地の凹凸に物語が接続されます。
近江の土で富士山を盛り、跡が琵琶湖になったという創造譚や、仁科三湖、千波湖の足跡譚のように、各地の地形に固有の説明が与えられてきました。
これは単なる奇譚ではなく、なぜその土地にその形があるのかを、暮らしの感覚に引き寄せて理解するための方法だったのです。

この型が広がった背景には、巨大な自然地形を人ならざる大きな存在のしわざとして捉えたいという発想があります。
たとえば世田谷区「代田」やさいたま市「太田窪」の地名由来も、地形と名前を結ぶ想像力の延長にあります。
地名や景観を手がかりに、目に見える土地の姿を昔話へと変換するわけです。
大串貝塚ふれあい公園に立つ高さ15.25mのダイダラボウ像のように、現代でもそのイメージは地域の象徴として残っています。

妖怪なのか神なのか|中間的な位置づけ

ダイダラボッチは妖怪図鑑では妖怪として扱われますが、性質はずっと神に近いところにあります。
退治される怪物ではなく、土地の成り立ちを語る大きな力として畏敬を込めて語られてきた点が特徴です。
元来は国づくりの神に対する巨人信仰が母体になったとする見方もあり、ここには「恐れる」より「受け止める」語り口が強く表れています。
妖怪と神のあいだにある、あいまいで豊かな領域です。

この中間性は、名称や表現の多様さにも表れています。
柳田國男は「大太郎法師(だいだらほうし)」を語源とし、極小の一寸法師の逆として極大を意味したと述べました。
長野のデイラボッチ、武蔵村山市の大多羅法師・デエダラボッチ、秋田のオイダラボッチのように呼び名も幅広く、「ダイダラ」が製鉄の「たたら」に通じるとする語源説もあります。
さらに正体論では、西日本での一つ目表現から一つ目小僧との近縁、炉の炎で片目を損なうたたら製鉄従事者の信仰や鍛冶の神・天目一箇神との関連まで論じられてきました。
人々はこの存在を、単一の怪物ではなく、土地と生業をまたぐ大きな象徴として見ていたのです。

なぜ各地で同じ話が語られたのか

似た話が各地にあるのは、巨大な自然を「誰かのしわざ」として理解したい感覚が共通していたからです。
奈良時代成立の『常陸国風土記』には、丘に腰かけ海辺の貝を掘って食べた巨人の跡が貝塚、現・水戸市の大串貝塚になったと伝わります。
足跡は約三十歩あまり、約72m級と紹介されるほど大きく、尋常でないスケールが語りを強く印象づけます。
柳田國男が1927年に雑誌『中央公論』へ「ダイダラ坊の足跡」を発表し、後に評論集『一目小僧その他』に収めて全国の伝説を集めたのも、この普遍性を見抜いたからです。

同じ名前でも性格が違うのは、伝承が土地ごとの事情に応じて育つからでしょう。
山の形、湖の窪み、貝塚の由来、地名の響きが重なり合うたびに、ダイダラボッチは別の顔を獲得してきました。
現代では映画『もののけ姫』のデイダラボッチ、シシ神の夜の姿として再解釈され、古代から現代まで一本の線でつながっています。
地形を見上げたとき、その背後にどんな巨人が想像されたのかをたどると、伝承の読み方がぐっと立体的になるはずです。

名前の由来と地方ごとの呼び名

ダイダラボッチの名前は、巨人の姿をどう呼びならわしてきたかを映す手がかりです。
柳田國男は「大太郎法師(だいだらほうし)」を語源とみて、極小の一寸法師の逆にあたる、極大の存在を示す名だと考えました。
名前そのものに「とにかく大きいもの」という発想が刻まれている、という読み方です。

『大太郎法師』語源説と柳田の解釈

柳田國男の見方で面白いのは、ダイダラボッチを単なる怪異名ではなく、民間語のなかで意味がほどけた言葉として捉えている点です。
「大太郎法師(だいだらほうし)」という形に立てば、一寸法師との対照がはっきりします。
小さな英雄譚の裏返しとして、土地をまたぐほど大きな存在が想像された、そう読めるからです。
巨人伝説が山や湖の地形創造譚と結びつくのも、この「規格外の大きさ」が核にあるからでしょう。

ただし、この語源は断定ではありません。
柳田の説は、名前の音と意味の感触を手がかりにした有力な解釈であって、決定打があるわけではないのです。
だからこそ、ダイダラボッチは「何者か」を語る前に、「どう名づけられたか」が先に揺れている存在だといえます。
妖怪と神のあわいに置かれる理由も、名の解釈が一枚岩でないところに表れているのでしょう。

デイラボッチ・デーランボウ|方言形のひろがり

現地を歩くと、同じ巨人なのに隣り合う集落で呼び名が違うことが珍しくありません。
長野ではデイラボッチ、東京都武蔵村山市では大多羅法師・デエダラボッチ、秋田ではオイダラボッチ、関東ではデーランボウと呼ばれます。
地図に書き起こしてみると、ひとつの怪異が全国に広がるだけでなく、土地ごとの音に折り曲げられながら受け継がれてきたことが見えてきます。
呼称の差は雑音ではなく、伝承の通り道そのものです。

古老がデイラボッチと言うのを聞いたとき、文献上のダイダラボッチと音がつながる瞬間がありました。
活字のなかでしか見ていなかった名が、目の前の土地の口から立ち上がるのです。
こうした場面に立つと、方言形は単なる言い換えではなく、伝承がどの集落を通って残ったかを示す痕跡だとわかります。
呼び名のひろがりを追う作業は、巨人の正体を探る前段階として、かなりおすすめです。

『たたら』につながる名前という見方

もうひとつの見方が、『ダイダラ』の音を製鉄の『たたら』に結びつける語源説です。
ダイダラボッチ伝説の残る土地が、昔に製鉄が行われた地域と重なるという指摘は、名前の由来を生活史の側から読む手がかりになります。
炉の熱、鉄を打つ音、黒く残る土の感触。
そうした現場の記憶が、巨人の名に染み込んだと考えると、伝説はずっと地面に近づくはずです。

この見方は、正体論にもつながります。
たたら製鉄に関わる人々の信仰や、天目一箇神との関連が論じられるのも、ダイダラボッチが単なる空想上の怪物ではなく、土地の生業と結びついた存在として語られてきたからです。
もっとも、柳田國男の説も、たたらに通じるとする説も、どちらも決定的な証拠があるわけではありません。
複数の説が並び立つ状態こそが、この名の面白さであり、読者は「こう考えられている」という留保つきで受け取るのがよいでしょう。

常陸国風土記が伝える日本最古級の巨人記録

項目内容
典拠『常陸国風土記』那賀郡の条
成立時期奈良時代
主な記述丘に腰かけた巨人が海辺の貝を手で掘って食べた話
関連地大串貝塚(水戸市)
付随する伝承足跡の長さは約三十歩あまり

『常陸国風土記』那賀郡の条には、丘に腰かけた巨人が海辺の貝を手で掘って食べた話が記されます。
奈良時代に成立した文献に残る巨人記録としては日本最古級で、単なる語り伝えではなく、かなり早い段階で文字化された点に価値があります。
後世の怪異譚と違い、土地の由緒と結びついた形で残るのが特徴です。

『大串の丘』に腰かけた巨人の話

大串の丘の巨人譚は、ただ大きな人がいたというだけの話ではありません。
丘に腰を下ろし、海辺まで手を伸ばして貝を掘り取る姿が描かれているため、読者はその場の地形や距離感まで想像させられます。
現地の大串貝塚に立つと、眼下に広がる土地と海の気配が重なり、千三百年前にこの文がどんな景色を前にして書かれたのか、少しだけ手触りを持って感じられました。
文字の中の巨人が、土地の輪郭を借りて立ち上がるように見えるのです。

風土記の原文を当たり直すと、この話は後世の再話よりもずっと地名と地形に寄り添っていました。
細部を追うほど、巨人そのものよりも「この土地に、こういう伝承が残る理由」が浮かんできます。
大串の丘は、伝説の舞台装置であると同時に、地名を記憶へ固定するための起点でもあるのです。

貝塚として残った『巨人が食べた跡』

巨人が食べた貝の殻が積もって丘になった、という筋立ては、大串貝塚(水戸市)を伝承の中心に据えます。
神話的な誇張がそのまま空想に閉じず、縄文時代の実在の貝塚へ接続されているのが面白いところです。
人びとは、すでに残っていた貝の堆積を見て、それを巨人の食べ跡として読み替えたのでしょう。
そう考えると、伝説は土地の痕跡を説明するための言葉でもあったとわかります。

調査の過程で後世の再話を照合すると、数値や細部が少しずつ整理され、巨人の輪郭が語りやすい形へ整えられていく流れが見えてきました。
原文に触れると、物語化の前段階では、まだ場所そのものが主役だったことが伝わります。
伝承と考古遺跡が重なる地点だからこそ、この話は読み物としても現地史としても強い説得力を持つのです。

文献記録としての古さと意味

足跡の長さは原文で『三十歩あまり』とされ、現代では約72m級の巨大さとして紹介されます。
数字があるだけで、巨人はぼんやりした怪異ではなく、測れる存在として立ち現れます。
古代の記述にここまで具体的な尺度があるのは、単に誇張が派手だからではありません。
聞き手に「この土地には本当に普通ではない存在がいた」と納得させるための、強い語りの技法だと見るべきでしょう。

さらに重要なのは、『常陸国風土記』そのものが、各地の地名由来や産物を国家に報告した公的な性格の文献だという点です。
つまり巨人譚は、民間でふわりと漂った話ではなく、土地の由緒として正式に記録されたのです。
奈良時代成立という時点の古さに加え、公的文書に残った事実が、伝承の格を一段引き上げています。
巨人は空想の住人であると同時に、古代の土地認識を映す証人でもあるわけです。

柳田國男の研究|『ダイダラ坊の足跡』が拓いた視点

柳田國男の『ダイダラ坊の足跡』は、1927年に雑誌『中央公論』で発表され、のちに評論集『一目小僧その他』に収められた。
全国に散らばるダイダラボッチ伝説を集め、足跡や地名を比べながら巨人像を組み立てた点に、この論考の新しさがあります。
断片的に語られてきた話を、民俗学の方法で一つの見取り図へ束ねたところに意味があるのです。

全国の伝説を集めて照合する手法

『一目小僧その他』を読み込むと、柳田國男が各地の伝説を孤立した怪談として扱っていないことがよくわかります。
むしろ、各地に残る言い伝え、地形、土地の呼び名を並べ、互いに照合することで、ダイダラボッチを「どこかにいた巨人」の話ではなく、広い分布を持つ伝承として再構成しているのです。
読んでいて印象的なのは、素材のばらつきそのものを欠点にせず、違いの中に共通の骨格を見つけようとする姿勢でした。

この方法が重要なのは、ダイダラボッチを信仰の残滓や空想譚として片づけず、比較可能な対象として学問の俎上に載せたからです。
地名や足跡の記憶は、単なる昔話ではなく、土地の歴史や人々の認識のしかたを映します。
柳田はその点を見抜き、断片から全体像を立ち上げる民俗学の手つきを、この論考で鮮明に示したといえます。

『妖怪=零落した神』という枠組み

柳田國男がこの巨人を語るうえで核に置いたのが、『妖怪は零落した神』という仮説です。
かつて畏敬の対象だった存在が、時代の移り変わりの中で姿を変え、妖怪や巨人譚として語り継がれるという見立てで、ダイダラボッチの大きさと曖昧さを同時に説明できるところが面白い。
神でもあり妖怪でもある、その中間的な性格がこの伝承にはよく似合います。

この枠組みは、単に不思議な話を神話化するための飾りではありません。
村落の記憶や地名、畏れの感覚が、長い時間の中でどう変質するのかを考えるための道具です。
柳田の議論を追うと、妖怪を「奇妙な存在」として見るのではなく、むしろ歴史の層を背負った存在として読む視点が開けてきます。
ここに、民俗学が怪異を扱う強さがあります。

代田など地名起源説の提示と留保

柳田國男は各地の足跡伝説と地名を照合し、巨人が通った跡として地形や土地の名を読み解きました。
『代田(だいた)』などをダイダラボッチ由来とみる地名起源説は、その延長線上に置かれています。
地図でたどっていくと、伝説が点ではなく線や面として見えてきて、河川や街道の近くに記憶が集まりやすい理由も想像しやすくなります。

もっとも、この地名起源説は柳田の仮説であり、確定した事実ではありません。
だからこそ、学術的に提示された見方として受け止め、後の研究でも議論が続いている点まで含めて読む必要があります。
たとえば『一目小僧その他』を手がかりに、地名の分布を地図で確かめてみると、柳田の読みの鋭さと、なお残る解釈の余地が同時に見えてくるはずです。
ここはおすすめです。

ダイダラボッチの正体をめぐる諸説

ダイダラボッチの正体をめぐる諸説は、ひとつの答えに収束していません。
むしろ、国土を生んだ神への巨人信仰、一つ目・片目の妖怪譚、製鉄の記憶が重なり合って形づくられた伝承として読むほうが、土地ごとの違いをよく説明できます。
現地で話を聞くと、その重なりは文献上の仮説にとどまらず、山や炉の跡が残る場所の歴史として実感されることがありました。

国づくりの神の巨人信仰という起源説

最も有力とされるのは、元来は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだとする見方です。
山を押し上げ、湖を掘り、地形そのものをつくるはたらきは、国土を生んだ神の力を人の姿へ引き寄せた結果だと考えると、ただの怪力自慢ではなく、土地の成り立ちを語る神話的な巨人として見えてきます。
巨大な足跡や地形の窪みをダイダラボッチに結びつける各地の語りも、この発想と相性がよいでしょう。
山間の集落で製鉄遺跡を前に話を聞いたとき、たたら説が机上の理論ではなく、土地の記憶をそのまま束ね直したものだと感じました。

一つ目・片目との結びつき

西日本ではダイダラボッチが一つ目の姿で描かれることがあり、片目の妖怪一つ目小僧との近縁が指摘されます。
柳田が一つ目小僧を山の神の零落した姿と論じたことを踏まえると、巨大な山の霊威が人里に降りてくる過程で、異形の身体が切り詰められ、一つ目という印象的な特徴に凝縮されたとも読めるのです。
古老がダイダラボッチと一つ目小僧を続けて語った場面では、別々に見えた妖怪が片目という一点で同じ系譜に結ばれていきました。
伝承は分類より先に、似た姿を通路にしてつながるのだと分かります。

たたら製鉄と天目一箇神の影

片目という特徴は、炉の炎を見続けて視力を損なうことの多かったたたら製鉄従事者の信仰や、製鉄・鍛冶の神天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と結びつけて論じられます。
暗い炉の前で長く作業すれば、目に負担がかかるのは避けられません。
その身体感覚が神格化され、片目の神や妖怪のイメージとして残ったと考えると、ダイダラボッチの一つ目伝承にも現場の労働の影が差してきます。
さらに、ダイダラボッチ伝説の残る土地が製鉄地と重なるとの指摘は、この解釈を支えます。
土地の伝承は、神話と労働史を切り分けずに保存しているのでしょう。

これらの説はどれも決定的ではなく、今も並存しています。
正体を一つに決めるより、巨人信仰・一つ目・製鉄という複数の糸が一つの伝承に絡み合っていると捉えるほうが、ダイダラボッチの輪郭はかえって鮮明になります。
おすすめです。
見方を変えながら読み比べてみてください。

全国に残る地名・地形とダイダラボッチ

ダイダラボッチの話は、巨大な姿そのものよりも、山や湖、地名をどう説明するかに本質があります。
近江の土を掘って富士山を盛り、その窪みが琵琶湖になったという創造譚は、ただの怪力譚ではなく、日本最大の山と湖をひとつの物語で結びつける説明でもあります。
スケールの大きさが先に立つからこそ、遠い昔の話でありながら土地の実感に触れる伝承として残ってきたのでしょう。

富士山と琵琶湖をめぐる創造譚

代表的な創造譚では、ダイダラボッチが近江の土を掘って運び、富士山を盛り上げたとされます。
残された窪みが琵琶湖になったという筋立ては、山と湖を別々のものとしてではなく、ひと続きの地形として理解させる点に特徴があります。
雄大な景観を人の身体感覚に引き寄せる語りだからこそ、富士山と琵琶湖は対になって語られやすいのです。

この型は、自然の成り立ちを巨人の作業に置き換えることで、地形の迫力をそのまま物語に変えています。
読者にとって面白いのは、伝承が単なる空想ではなく、見慣れた景色に「なぜこうなっているのか」という問いを与えるところでしょう。

足跡が地名になった土地

ダイダラボッチの痕跡は、地名にも残ります。
東京都世田谷区代田(だいた)やさいたま市太田窪(だいたくぼ)は、足跡が地名の由来とされ、巨人の一歩がそのまま土地の名前になった形です。
代田周辺を歩くと、住宅地の中に埋もれた地名の説明が看板や自治会の掲示として残っており、日常の景色の内側に伝承が静かに息づいているのがわかります。

長野県大町の仁科三湖、青木湖・中綱湖・木崎湖も足跡由来とする伝承があり、水戸の千波湖にも同種の説明が伝わります。
湖沼を足跡で説明する発想は、全国の各地で似た形を取り、巨大な身体が地形を刻んだという共通の想像力を示しています。
高ボッチのように名の由来が巨人と結びつく土地もあり、地名は単なる呼び名ではなく、土地の記憶を運ぶ器だと見えてきます。

ダイダラボウ像など今訪ねられる場所

伝承は紙の上だけで終わりません。
水戸市の大串貝塚ふれあい公園には高さ15.25mのダイダラボウ像が立ち、文献の中の巨人を現代の立体として見せています。
見上げた瞬間、文字で知っていた数値が身体感覚に変わるのです。
巨大像は、伝承を「知識」から「場の体験」へ押し上げる装置であり、訪ねる理由をはっきり与えてくれます。

こうした場所は、ダイダラボッチを遠い昔話として閉じず、今も歩ける土地の記憶として残しています。
おすすめは、地名の由来が残る町を歩き、次に湖や公園のような現地の景観を見に行くことです。
そうすると、伝承がどのように地形や施設へ姿を変えたのかが自然に見えてきます。
伝説をたどる旅は、身近な場所から始めてみてください。

現代のダイダラボッチ|もののけ姫と再話

映画『もののけ姫』のデイダラボッチは、古い巨人伝説をそのまま写した存在ではありません。
夜になるとシシ神が半透明の獣頭巨神として現れ、森を巡るという設定によって、地形をつくる土着の巨人像が生命を育てる神へと組み替えられています。
ここには、古典の断片を現代の映像表現で再話し直す宮崎駿の手つきが、はっきり見えます。
学生から「デイダラボッチは実在する伝説か」と問われたことがあるが、その問いこそ、フィクションが伝承への入口になる瞬間でした。

シシ神の『夜の姿』としての描写

映画『もののけ姫』で印象的なのは、シシ神が夜になるとデイダラボッチへ姿を変える場面です。
半透明の獣頭巨神として森を歩くその姿は、ただ巨大なだけではなく、星空や銀河を思わせる身体を持ち、古い巨人譚の名を借りながらも、視覚イメージはきわめて現代的です。
ここで重要なのは、単に「大きい怪物」を出したのではなく、森そのものの気配を神格化した点にあります。
観客は、畏怖の対象が破壊者ではなく、循環する生命の側に置き直されていることを自然に受け取るでしょう。

ℹ️ Note

デイダラボッチの造形は、伝承名の借用と映像的再発明が同時に働いているところに特徴があります。

宮崎駿の独自解釈と原伝承の距離

宮崎駿は著書『折り返し点1997〜2008』で、この夜の姿が森を育てる存在だと記しています。
原伝承に見られる「地形をつくる巨人」という造化のはたらきが、もののけ姫では、森の再生を担う神の夜の顔として翻案されているわけです。
原型を残しつつも、役割の重心を「地形」から「生命」へ移すことで、神話は現代の環境感覚に接続されました。
原伝承との距離があるからこそ、作品は説明よりもイメージで伝わり、古い名が新しい意味を帯びるのです。

比較すると、古典のダイダラボッチは一つ目や製鉄と結びつく土俗的な巨人でしたが、もののけ姫版は自然と生命の象徴へと抽象化されています。
原資料と映画設定を並べて読むと、宮崎駿が残したのは「巨大さへの畏れ」であり、膨らませたのは「森が生きている」という感覚だとわかります。
学生に説明するときも、この差を押さえるだけで見え方が変わるはずです。

観点古典のダイダラボッチ『もののけ姫』のデイダラボッチ
主要な性格土俗的な巨人森を司る神の夜の姿
結びつき一つ目、製鉄自然、生命、再生
印象の核地形をつくる存在星空や銀河のような身体

巨人伝説が今も語り継がれる理由

巨人伝説が現代の創作でも生き続けるのは、巨大な自然を前にした畏れと敬いが、時代を超えて共有されているからです。
古代の風土記から現代のアニメまで一本の線でつながるのは、伝説が固定された答えではなく、見え方を変えながら語り継がれる形式だからでしょう。
実際、もののけ姫を入口にして古典の巨人譚へ戻る流れは、今でも十分に機能します。
まず映画でイメージをつかみ、次に原伝承の資料を読む。
そこから宮崎駿がどこを残し、どこを膨らませたのかを見てみてください。
伝承は、再話されるたびに新しい呼吸を得るのです。

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遠野 嘉人

民俗学を専攻し、日本各地の妖怪伝承をフィールドワークと古典文献の両面から研究。『今昔物語集』『画図百鬼夜行』等の原典にあたった解説を信条とします。

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