都市伝説

赤いマントの発祥と諸説|昭和の流言から学校怪談へ

更新: 霧島 玲奈
都市伝説

赤いマントの発祥と諸説|昭和の流言から学校怪談へ

赤いマントは、1939年(昭和14年)春の東京で、小学生から大人までを巻き込んだ流言として広がった怪談である。赤いマントの怪人が子どもをさらうという噂は、日中戦争下の不安の中で社会を動かした恐怖デマだった。

赤いマントは、1939年(昭和14年)春の東京で、小学生から大人までを巻き込んだ流言として広がった怪談である。
赤いマントの怪人が子どもをさらうという噂は、日中戦争下の不安の中で社会を動かした恐怖デマだった。

発祥には定説がなく、大阪下駄箱説、青ゲット殺人事件説、怪人二十面相説、旧制高校生マント誤認説が並立している。
本記事ではどれか一つに決めつけず、それぞれの根拠と弱点を整理しながら、なぜこの話が広まったのかをたどっていく。

赤いマントは一話で終わらず、『赤いマント・青いマント』や『赤い紙青い紙』へと派生し、トイレで色を選ばされる選択系怪談の系譜を形づくった。
子どものころに友達から聞いた「赤い紙か青い紙か」という話をたどると、昭和の赤いマントに行き着く、その追跡の入口としても読めるはずだ。

この系譜を支えるのは、戦時下の不安、子どもの口承文化、紙芝居や少年雑誌の影響という三つの補助線である。
怖い話として消費するだけでなく、どうして人はこの噂を語り継いだのかを一緒に見ていきましょう。

赤いマントとは何か:子どもをさらう赤い怪人の正体

赤いマントとは、赤いマントを着た怪人が子どもをさらい、血を吸う、あるいは殺すと語られた昭和初期の流言です。
話の細部は語り手や地域によって揺れますが、夜道で子どもを狙うという骨格だけはほぼ共通していました。
とくに1939年(昭和14年)春の東京では、小学生の間で「赤いマントの怪人」が急速に広まり、女学生や中学生、大人まで巻き込む恐怖の話題になっています。
赤という色が血や危険を即座に連想させるため、後に青いマントや赤い紙青い紙へつながる色の怪異の系譜を考えるうえでも、ここは起点になるでしょう。

『赤いマント』の基本ストーリー

赤いマントの基本像は、赤いマントを着た怪人が夜道に現れ、子どもを捕まえて血を吸う、あるいはそのまま連れ去って殺すというものです。
聞くたびに細部が少しずつ変わるのが口承の面白さで、血を吸うのか、さらって終わるのか、怪人がせむしなのかどうかまで、地域差と語り差がそのまま残ります。
実際に聞き比べると、筋の一部が崩れても「赤いマントの男が子どもを襲う」という核だけは消えず、そこに噂としての生命力があるとわかります。

赤はただ目立つだけの色ではありません。
血の色であり、危険の色であり、見ただけで身構えさせる記号です。
そのため赤いマントは、見知らぬ他者への不安を一瞬で可視化する装置として働きました。
後に赤い紙青い紙や青いマントが選択系の恐怖を作るときも、色そのものが恐怖のスイッチになる構造はここですでに形を取っています。
おすすめです、と言いたくなるほど単純な仕掛けですが、単純だからこそ広まりやすいのです。

標的は子ども、とくに少女とされた背景

この話で狙われるのは子ども、とくに少女として語られる版が多いです。
1939年(昭和14年)春、東京の小学生の間で「夜道で子どもを捕まえ血を吸う」「3〜5年生の女子の血を吸う」という型が広がったのは、子どもがもっとも身近で、しかも守られるべき存在だったからだと読めます。
社会の不安は、抽象的な弱者ではなく、日常の中でいちばん傷つきやすい輪郭に投影されやすいのです。

少女が狙われる形になると、噂は単なる脅しではなく、家庭や学校の保護意識まで巻き込みます。
夜道をひとりで歩かない、帰宅を急ぐ、友人同士で固まる。
そうした行動が恐怖の再生産を助け、話を現実味のあるものに見せていきます。
地域ごとに「血を吸う」と「さらって殺す」が入れ替わるのも、恐怖の焦点が一点に定まりきっていないからでしょう。
核は同じでも、受け手の不安に合わせて姿を変える。
そこに流言の強さがあります。

怪談ではなく『流言(デマ)』として広まった

赤いマントは、もともと学校の怪談として始まった話ではありません。
昭和初期に口コミで広がった流言、つまり恐怖デマとして拡散し、のちに怪談の棚へ回収されていった経緯を押さえる必要があります。
ここを曖昧にすると、後のトイレ怪談との出自の違いが見えなくなるからです。
学校の怪談が「学校空間に付着した話」だとすれば、赤いマントはまず社会全体を走った噂でした。

1939年(昭和14年)春の東京では、評論家が同年4月の総合雑誌に「赤マント社会学」を寄稿し、強い恐怖を感じる人ほどその恐怖に引き寄せられると論じています。
日中戦争下の不安が背景にあったと考えると、なぜこの噂が子どもだけでなく女学生、中学生、大人にまで広がったのかも理解しやすいです。
調べていくうちに、最初は学校の怪談だと思っていた話が、戦前の社会的な噂だったと知り、見え方ががらりと変わるでしょう。
赤いマントは妖怪というより、社会がつくった恐怖の記録なのです。

1939年の東京:赤いマント流言が社会現象になった年

1939年(昭和14年)春の東京では、赤いマントを着た怪人が子どもを襲い血を吸うという噂が、小学生の間から女学生・中学生へと広がり、やがて大人の口にも乗る社会現象になっていた。
発祥をめぐる説は後段で整理するとして、この時点ですでに流言は子どもの遊び場に閉じず、都市の不安を映す話題へ変わっていたのである。
古い雑誌記事の索引で大宅壮一の『赤マント社会学』が1939年4月号に実在することを確認すると、怪談が単なる噂ではなく、同時代に分析されるほどの規模へ達していた事実が見えてくる。

小学生から大人まで巻き込んだ流行

『せむしの赤マントの男が夜に子どもを襲い血を吸う』という噂は、まず小学生の間で勢いよく広がった。
だが、そこで止まらなかったのがこの流言の特徴です。
女学生や中学生にも伝わり、さらに大人にまで届いたことで、学校内の怪談ではなく、町全体の話題として機能し始めた。
教師までが「本当だ」と語ったという証言は、その場で語る人の年齢や立場が加わるだけで、話が事実らしさを帯びてしまう典型例だろう。

ここで重要なのは、噂の内容そのものより、誰がそれを口にしたかで信憑性が変わる点にあります。
子どもの間の話なら遊び半分で済んでも、教師のような権威ある立場が加わると、聞き手は確認できないまま受け入れやすくなる。
赤いマントの話が広がったのは、まさにその伝播の力学が働いたからである。

大宅壮一『赤マント社会学』が捉えた恐怖の心理

大宅壮一は『中央公論』1939年4月号に『赤マント社会学』を寄稿し、この噂を社会現象として扱った。
pp.422-427にまたがる短い論考でありながら、怪談を民衆心理の問題として読み替えた点に意味がある。
単なる子どもの流行話ではなく、怖さそのものが人を集め、話を増幅させると見たからです。

大宅が述べた「恐怖の圧力を最も強く感じる者にとって、恐怖は最大の魅力にもなる」という趣旨は、いま読んでも鋭い。
怖いから避けるのではなく、怖いからこそ気になり、確かめたくなり、つい語ってしまう。
この逆説があるため、赤マントのような噂は消えにくいのである。
祖父母世代から「昔そんな噂で外に出るのが怖かった」と聞くと、流言は一時の騒ぎではなく、世代の記憶として残るのだと実感する。

戦時下の不安と流言の関係

1939年は日中戦争下で、社会全体に不安が漂っていた時期だった。
もちろん、赤マントの流行を戦時下だけで説明することはできない。
ただ、先の見えない空気のなかでは、子どもの間の噂が大人の不安と共鳴し、増幅されやすかったと考えるのが自然です。
夜道への恐れ、子どもへの保護意識、正体の見えないものへの警戒が重なれば、怪談は現実の緊張感を帯びる。

その意味で赤マントは、単なる妖怪譚ではない。
社会が不安を抱えたとき、人はどんな話を怖がり、どんな話を本当らしいと感じるのかを示す記録でもある。
ここで見えるのは、流言が流言として終わらず、時代の空気に触れた瞬間に社会現象へ変わる瞬間だ。

発祥をめぐる諸説①:大阪の下駄箱と東京伝播説

1935年(昭和10年)頃の大阪市の小学校を起点に、赤マントの話をたどると、地下の薄暗い下駄箱にマント姿の男が現れるという噂に行き着きます。
これをもっとも有力な原型の一つとみる地理的伝播説では、暗い校内の半地下空間が恐怖の核になり、そのイメージが1〜2年かけて東京へ移り、都市の怪談へと形を変えたと考えます。
噂の舞台が校内の閉鎖空間から広がっていく筋道が見えるため、赤マントは単独の怪異というより、学校空間の不安が都市へ拡散した例として読むと筋が通るでしょう。

大阪・下駄箱のマント男という原型

この説の出発点は、1935年(昭和10年)頃に大阪市の小学校で語られた「地下の薄暗い下駄箱にマント姿の男が出る」という噂です。
ここで効いているのは、姿そのものよりも場所の条件で、昼間でも暗く、子どもが出入りする学校の半地下空間が、日常と非日常の境目として機能している点にあります。
下駄箱は本来、靴を脱ぎ整える生活の場所ですが、そこに未知の男が結びつくと、最も身近な動線が恐怖の入り口へ反転します。
赤マントの発想を考えるうえで、この「ありふれた場所が不穏に見え直される」構図は外せません。

さらに重要なのは、後に赤マントが語られる場面が、トイレのような閉鎖空間へ移っていく流れです。
大阪の下駄箱は、その変化の始点として位置づけられます。
つまり、最初から赤い衣装の怪人が完成していたのではなく、暗い場所にいる男という輪郭のあいまいな恐怖が、伝わる過程で色や名称をまとっていった可能性があるわけです。
年表で並べると、大阪の小学校での噂が先にあり、その後に東京で赤マントとして目立つようになるため、西から東へ移るという筋が見えます。
発祥と流行の時期が重なる点に、私はいちど納得しました。

1〜2年かけて東京へ伝わったとする説

地理的伝播説の要点は、噂が1〜2年かけて東京へ伝わったと考えるところにあります。
短期間で全国に同じ形が広がるのではなく、子ども同士の口承や学校周辺の語りのなかで、少しずつ姿を変えながら移動したとみるわけです。
大阪で生まれたとされる下駄箱の男の話が、東京に届くころには赤マントという呼び名に落ち着く。
そう考えると、名称の変化は偶然ではなく、土地ごとの恐怖の受け止め方が反映された結果として見えてきます。

この見方が面白いのは、怪談の「真偽」よりも「移動のしかた」を説明している点です。
都市伝説は、ある地点で完成品として生まれるというより、話し手の記憶、校内の地理、周囲の流行語が混ざり合って育ちます。
大阪発祥説と東京流行が時期的につながることを年表で並べると、西から東へ伝わった可能性はかなり自然に映るでしょう。
とはいえ、時期が近いからといって直結を断定するのは早い。
ここは、噂の動線を読む仮説として扱うのが妥当です。

紙芝居と警察が関わった挿話

この説には、当時人気だった紙芝居『赤マント』が噂の過熱を受けて大阪で警察に没収された、という挿話も付随します。
紙芝居が先にあり、街の子どもたちのあいだで話題が膨らみ、その熱がさらに噂を強めたという循環が想像できるため、口承とメディアが互いに火をつけた構図として読むとわかりやすいです。
ここで重要なのは、紙芝居が単なる背景ではなく、怪談の輪郭を強める増幅装置として働いた可能性にあります。
見聞きした子どもが語り直し、また別の場で広がる。
そうした反復が、赤マントを実在感のある話へ押し上げたのでしょう。

ただし、この挿話は出所を複数の資料で照合すると、確証と伝聞の境目がはっきり残ります。
私は、紙芝居が警察に没収されたという話を並べて確認し、どこまでが記録で、どこからが後年の脚色かを見極めようとしました。
すると、挿話そのものは有力でも、一次史料で十分に裏づけられているとは言い切れないことが見えてきます。
だからこそ、このエピソードは断定の材料ではなく、メディアと怪談が相互に増幅した可能性を示す手がかりとして読むのがよいでしょう。

発祥をめぐる諸説②:青ゲット殺人事件という暗い源流

青ゲットの殺人事件は、1906年(明治39年)に福井県で起きた実在の未解決事件であり、赤マントの起源を語る際にしばしば引き合いに出されます。
怪談としての赤マントだけを見ていると、都市伝説の出どころは曖昧なままですが、背後にある現実の事件をたどると、恐怖がどのように形を変えて残るのかが見えてきます。
しかもこの話は、単なる「こじつけ」で片づけるには重く、事件そのものの悲劇性が伝承の輪郭を濃くしているのです。

青ゲット殺人事件の概要

青ゲットの殺人事件では、青いケット(毛布)をかぶった35歳くらいの男が、一家に近づいては口実を使い、家族を順に家から誘い出して殺害したとされています。
犯人は特定されないまま、1921年(大正10年)に公訴時効が成立し、法的にも解決の糸口を失った未解決事件になりました。
ここで重要なのは、怪談の素材として消費される以前に、生活の場に現れた暴力として記録されている点でしょう。

取材のためにこの事件の捜査経過の記録を追うと、細かな証言や断片的な状況説明の積み重ねが、かえって現場の生々しさを伝えてきました。
怪談の名前だけを知っている段階では遠い昔話に見えても、家族が一人ずつ外へ連れ出される構図を読むと、そこにあったのは伝説ではなく、地域社会を震わせた現実の悲劇だとわかります。
だからこそ、この事件は後世の語りに吸い込まれても、重みを失わないのです。

未解決のまま伝説化した過程

未解決事件が伝説へ変わるとき、決定的なのは「犯人が誰だったのか」が確定しないことだけではありません。
いつ、どこで、誰がという基本情報は残っても、時間がたつほど細部は削られ、残された輪郭だけが繰り返し語られます。
青ゲットの殺人事件も、事件の恐怖そのものが語り継がれるうちに、説明のための具体性よりも、聞いた瞬間に意味が伝わる強い印象が前面に出ていったのでしょう。

この変化は、流言や伝説がたどりやすい典型的な変形でもあります。
複雑な出来事ほど、語り手は覚えやすい一点に圧縮し、聞き手はその一点から全体像を補ってしまうからです。
青いケット、夜の訪問者、家族を誘い出す手口。
そうした要素は、事件の説明を超えて「何か不気味なものが来る」という感覚に変換されやすく、怪談化の土壌をつくりました。
面白いのは、この圧縮が記憶を助ける半面、史実との距離も広げてしまう点です。

『青ゲット→赤マント』への結びつきの真偽

『青ゲット』が後に色違いの『赤マント』へ変化したとする説は、語感の近さと色の強い印象がぴたりと噛み合うため、たしかに魅力があります。
青い毛布をかぶった不審な男というイメージが、やがて赤い外套をまとった怪人像へ置き換わる流れは、伝説の整理としてはわかりやすいでしょう。
ただし、両者を直接つなぐ確かな証拠は見つかっておらず、現時点ではあくまで一つの解釈にとどまります。

この点をはっきり分けておくことが、伝承を読むうえでは欠かせません。
似ているから同じ系譜だと断定してしまうと、事件史と怪談史の境目が曖昧になり、どこまでが史実でどこからが後年の再構成なのか見えなくなるからです。
『青ゲット』から『赤マント』への連想は、色をまとった怪人という抽象形へまとめ直す働きをよく示していますが、証拠のある接続と、あとから整えられた物語は別に扱う必要があります。
伝説の成り立ちを考えるうえで、ここを取り違えないことが出発点になるでしょう。

発祥をめぐる諸説③:怪人二十面相・旧制高校生説など

赤マントの発祥をめぐっては、江戸川乱歩の創作イメージに結びつける説と、旧制高校生のマント姿を見間違えたとする素朴な説が並んでいます。
どちらも筋は通っていますが、決定的な証拠はなく、赤マント像は一つの原因だけで生まれたとは考えにくいです。
むしろ、子どもたちの記憶や不安が複数の断片を拾い集め、あとからひとつの怪談としてまとまっていったと見るほうが自然でしょう。

江戸川乱歩『怪人二十面相』モデル説

創作起源説では、江戸川乱歩が1936年に『少年倶楽部』で連載を始めた『怪人二十面相』の存在が手がかりになります。
黒マント姿の怪盗が少年向け娯楽の中心に置かれ、その不気味さと華やかさが、子どもたちの想像の中で赤マントの怪人像へずれていったのではないか、という見方です。
実際に挿絵の黒いマント姿を確認すると、色そのものは違っても、顔を隠し、体を包み、正体を見えにくくする輪郭はよく似ています。
記憶は細部をそのまま保存するとは限らず、強い印象だけを残して色や形を塗り替えることがあるため、黒が赤へ変わることも十分ありえます。

この説が面白いのは、赤マントを単独の怪異としてではなく、当時の大衆娯楽や児童文化の延長線上に置ける点です。
怪人は遠い異界から突然やって来るのではなく、雑誌の挿絵や物語の中で先に姿を与えられ、そこから現実の噂へにじみ出ていくことがあります。
『怪人二十面相』が子どもたちの読書体験に深く入り込んでいたなら、赤いか黒いかは本質ではなく、マントをまとった「正体不明の男」そのものが恐怖の核だったと考えられるでしょう。
色の違いより、姿の型が共有されたことのほうが重要です。

旧制高校生のマント誤認説

より素朴な説明としては、当時マントを羽織って歩いていた旧制高校生の姿が、子どもの目には不気味な怪人に映ったのではないかという誤認説があります。
制服のような日常の装いでも、背丈の高い若者が夜道や人通りの少ない場所で見えれば、それだけで普通ではない存在に感じられるものです。
とくに子どもは、衣服の印象を人物そのものの正体と結びつけやすい。
だからこそ、マントという目立つ外形が、恐怖を生む最初の入口になった可能性は高いです。

この説が示しているのは、怪談の源泉が必ずしも派手な創作だけではないという事実です。
日常の風景にある少し変わった服装、少し暗い道、少し背の高い影、そうした要素が重なるだけで、子どもの内側では十分に怪異へ変わります。
赤マントが人々の記憶に残ったのは、非日常の怪物だったからではなく、身近な人物像がそのまま恐怖へ反転したからかもしれません。
旧制高校生のマント姿という具体性は、怪談が生活感の中から生まれることをよく示しています。

なぜ発祥は一つに定まらないのか

これらの説はいずれも確証がありません。
ただし、互いに排他的でもないので、黒マントの怪盗イメージと、旧制高校生のマント姿への誤認が同時に作用し、赤マント像が固まったと見るのがいちばん無理がないです。
比較してみると、前者は物語の記憶、後者は日常の観察から来ており、出発点は異なっても、どちらも「正体の見えない男」を生み出しています。
怪談は一つの原因で完成するというより、複数の断片があとから噛み合って広がるものなのです。

ここで大切なのは、どれが真の元ネタかを一つに絞ることではありません。
発祥が一つに定まらないこと自体が、口承伝説の本質だからです。
誰が作ったかより、多くの人が語りたくなった理由のほうが、ずっと深い。
赤マントは、作者名のない不安が人から人へ移るうちに形を得た怪談であり、その曖昧さこそが長く生き残る力になったと考えると見えてくるものがあります。

赤いマントから生まれた選択系怪談:青いマント・赤い紙青い紙

赤いマントの系譜をたどると、戦後の怪談は色を選ばせるだけで逃げ道を塞ぐ仕組みへと磨かれていきます。
学校のトイレで「赤いマントいるか、青いマントいるか」と迫られ、どちらを選んでも死に近づくという構造は、恐怖そのものを二択に変える発想でした。
そこから『赤い紙青い紙』が生まれ、さらに奈良市の1930年代にまでさかのぼる「赤い紙やろか、白い紙やろか」の怪異が見えてきます。
色の選択は、逃走や交渉の余地を奪うための装置だったのです。

『赤いマント・青いマント』の選択構造

『赤いマント・青いマント』は、相手が差し出すのではなく、問いかけによって成立する怪談です。
「赤いマントいるか、青いマントいるか」と聞かれ、赤を選べば刺されて血まみれになり、青を選べば血を抜かれて青白くなって死ぬとされます。
ここで怖いのは色そのものではなく、選ぶ行為がすでに罠になっている点でしょう。
怪異はひとつの正解を隠しているのではなく、どちらを選んでも破滅するように作られているのです。

この型は、子どもが言葉遊びとして覚えやすい半面、内容はきわめて残酷です。
赤は流血、青は失血という連想がそのまま死のイメージに結びつき、色彩の対比が身体の損壊へ直結します。
そこで恐怖は、姿を見せる怪物よりも、返答を迫る声として現れる。
選択の瞬間にもう逃げられない、その感覚こそが核です。

『赤い紙青い紙』への派生

この構造がさらに洗練されたのが、『赤い紙青い紙』です。
便所で紙がないとき、声が「赤い紙か青い紙か」と問い、どちらを選んでも凄惨な結末を迎えるという話で、ここでは色の二択がそのまま生死の分岐になります。
子どもの記憶の中で「赤い紙か青い紙か」と聞かれた体験をたどると、その原型が昭和の赤いマントに連なっていたと気づく瞬間があるのは、この系譜がよく似た骨格を保っているからです。

面白いのは、選択肢がマントから紙へ変わることで、恐怖の舞台装置がいっそう日常に寄っていく点です。
マントはまだ外からやって来る異物ですが、紙は生活の欠乏に直結します。
しかも紙がない状況では、助けを求めることも難しい。
つまり『赤い紙青い紙』は、怪異を「不足の場面」に埋め込むことで、逃れにくさを強めた形だと読めます。

形態舞台問いかけ選択後の帰結
赤いマント・青いマント学校のトイレ赤いマントいるか、青いマントいるか赤は刺される、青は血を抜かれる
赤い紙青い紙便所赤い紙か青い紙かどちらも凄惨な結末

この表にすると、恐怖が「色の名称」ではなく「二択の強制」に宿っていることが見えやすくなります。

なぜ舞台は学校のトイレに移ったのか

舞台が屋外や下駄箱から、学校のトイレ・三番目の個室へ収束していった背景には、子どもにとっての密室性があります。
ひとりで入る個室は、周囲の気配が遮断される一方で、すぐに助けを求めにくい場所です。
そこで声だけが先に届くと、相手の姿を確認できないまま、想像が膨らむ。
戦後に怪談の主舞台が学校へ移った流れは、共同生活の中でいちばん孤立しやすい場所を狙ったものと考えると腑に落ちます.

奈良市では1930年代に「赤い紙やろか、白い紙やろか」という怪異が小学生に広まっていたとされます。
この点は、選択系怪談がトイレの花子さんより古い層を持つ可能性を、断定せずに示す手がかりになります。
各バージョンを並べて舞台の移動を図にすると、屋外から校舎へ、さらに個室へと恐怖が凝縮していく流れが見えてきます。
そこには、戦後の子どもが日常の中で最も無防備になる場所を、怪談が的確に見抜いていた事実が表れているのです。

色を選ばせる構造は、どちらを選んでも逃れられないという不可避の恐怖を作ります。
赤いマントから赤い紙青い紙までを貫く核は、まさにそこにあります。
選択が自由であるほど、人は自分で落とし穴を選ばされた気分になる。
そうした心理の働きこそ、この系譜を長く生き残らせた理由ではないでしょうか。

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霧島 玲奈

社会心理学の視点から都市伝説の伝播メカニズムやUMA目撃談の社会的背景を分析。年間100件以上の報告を収集・検証し、海外事例との比較調査にも取り組んでいます。

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