妖怪文化・民俗学

累ヶ淵とは|怪談の物語と史実の背景

更新: 遠野 嘉人
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累ヶ淵とは|怪談の物語と史実の背景

累ヶ淵は、下総国羽生村の鬼怒川沿岸を舞台に、慶長17年頃から寛文12年まで約60年にわたって続いた殺害と怨念の連鎖を語る怪談である。地名としての累ヶ淵と、助から累、そして菊と祐天上人へとつながる物語としての累ヶ淵は重なりながら少しずつ意味が異なり、その二重性を押さえると全体像が見えやすくなる。

累ヶ淵は、下総国羽生村の鬼怒川沿岸を舞台に、慶長17年頃から寛文12年まで約60年にわたって続いた殺害と怨念の連鎖を語る怪談である。
地名としての累ヶ淵と、助から累、そして菊と祐天上人へとつながる物語としての累ヶ淵は重なりながら少しずつ意味が異なり、その二重性を押さえると全体像が見えやすくなる。
元禄3年の『死霊解脱物語聞書』で文献化され、歌舞伎『色彩間苅豆』や落語『真景累ヶ淵』へ受け継がれた経路までたどると、この話が単なる怪談ではなく文化の中で形を変えてきたことがわかる。
法蔵寺で累の墓に手を合わせると、約350年前の出来事が文献の一行ではなく、実際に残る場所の記憶として立ち上がってきます。

累ヶ淵とは何か:怪談の概要と「累」の読み

項目 内容
名称 累ヶ淵(かさねがふち)
舞台 下総国岡田郡羽生村(現・茨城県常総市羽生町)の鬼怒川沿岸
成立・語り継がれた時期 慶長17年(1612年)頃〜寛文12年(1672年)
性格 地名としての実在の淵と、連続殺害と死霊譚を指す怪談の総称
核心 親子・夫婦の内側で起きる加害と、怨念が積み重なる因果応報

累ヶ淵は、下総国岡田郡羽生村(現・茨城県常総市羽生町)の鬼怒川沿岸にある実在の淵であると同時に、その土地で語られてきた怪談の総称でもあります。
地名と物語が同じ名を共有しているため、まず両者を切り分けて見ることが出発点になります。
怖さの中心は外から来る妖怪ではなく、家の内側で繰り返される加害にあります。

地名としての累ヶ淵と物語としての累ヶ淵

地名としての累ヶ淵は、鬼怒川の流れがつくる深い淵であり、下総国岡田郡羽生村という土地の記憶を今に伝えています。
物語としての累ヶ淵は、そこで起きた連続殺害と死霊の怨念を軸に組み立てられた伝承です。
同じ名を持ちながら、前者は地理、後者は語りの歴史を指す。
ここを混同すると、怪談がどの土地に根づいたのか見えにくくなります。
鬼怒川の流れを実際に見ると、底の見えない静かな深みが思いのほか強く印象に残り、なぜこの場所が舞台になったのかが感覚としてつかめます。

怪談としての累ヶ淵が面白いのは、単なる「怖い話」ではなく、土地の実感と物語の構造がぴたりと重なっている点です。
民俗学の現地調査でも、地名の読み一つに事件の記憶が畳み込まれている例にはしばしば出会いますが、「かさね」の読みはその好例でしょう。
地名が先にあり、出来事が後から貼りついたのではなく、読みそのものが悲劇の意味を抱え込んでいます。

なぜ「るい」でなく「かさね」と読むのか

「累」は通常は「るい」と読む字ですが、この怪談では「かさね」と読みます。
由来は、殺された連れ子の助に生き写しの女児が生まれたとき、村人が「助がかさねて生まれてきた」と噂したことにあります。
つまり、単なる当て字ではなく、死んだ子が別の姿で重なって現れた、という不気味な感覚が読みそのものに刻まれているのです。
字面の意味と民間の噂が結びつき、物語の芯を作っているところが実に鮮やかです。

この読みが残ったことで、累ヶ淵は「重なり」の怪談としても読めるようになりました。
ひとりの死が終わりではなく、次の世代の不幸を呼び込み、同じ名が人と出来事の両方に貼られていく。
そう考えると、「かさね」という音は、単なる呼称ではなく因果の蓄積を示す記号だと言えます。

親子三代の因果という骨格

物語の骨格は、親が子を、夫が妻を手にかけるという身内同士の連続殺害にあります。
発端は江戸初期、百姓・与右衛門と後妻お杉の家で、助が疎まれて川に捨てられたところから始まります。
その後、翌年生まれた女児が助に生き写しだったため、「累」と呼ばれるようになり、正保4年(1647年)には二代目与右衛門によって累もまた淵で殺害されました。
怖さの源が妖怪ではなく家族内の加害である点に、この怪談の重みがあります。

事件は慶長17年(1612年)頃から寛文12年(1672年)まで、約60年にわたって語られました。
一人の祟り話ではなく、親子三代にまたがる因果として描かれるため、登場人物の世代をたどると全体像がつかみやすくなります。
殺された者の怨念が時を越えて噴き出す構図は、単に怖いだけではありません。
家の内側で積み重なった罪が、別の世代にまで影を落とす、その冷たさこそが核なのです。

原伝承のあらすじ:助の死から累の怨霊まで

累ヶ淵は、下総国岡田郡羽生村、いまの茨城県常総市羽生町の鬼怒川沿岸に伝わる怪談で、家の内側で起きた加害が次の悲劇を呼び込む物語として語られてきました。
発端は百姓・与右衛門と後妻お杉の家にあり、お杉の連れ子である助が先に殺され、そののちに生まれた女児が助の面影を宿して累と呼ばれるところから、因果の連鎖が始まります。
助と累がどちらも「淵」で命を落とす反復は、この話が単なる怪異譚ではなく、世代をまたいで怨みが形を変える構図だと示しています。

連れ子・助が川へ投げ捨てられる

助は後妻お杉の連れ子で、生まれつき容貌が醜く、足も不自由でした。
そのため与右衛門に疎まれ、ついには川へ投げ捨てられて命を落とします。
ここで目を引くのは、怪異より先に家族の中の差別と暴力が前面に出ていることです。
外から来た化け物ではなく、家の秩序そのものが子どもを排除する。
その冷たさが、のちの怨霊譚に重い影を落とします。
原典『死霊解脱物語聞書』を読み進めると、記述は淡々としているのに、かえって陰惨さが増していくのがわかります。

この段階で重要なのは、助の死が「不幸な事故」ではなく、明確な加害として描かれている点です。
生まれつきの姿や身体の不自由さが、そのまま生存の可否を左右する理由にされてしまうからです。
読者はここで、後に続く祟りの話を先に怪しむより、まず人間の側が何を壊したのかを見なければなりません。
口承で語られた当時の聞き手が戦慄したのも、まさにこの身内による殺害の生々しさにあったのでしょう。

助に生き写しの「累」の誕生と最期

翌年、与右衛門とお杉のあいだに女児が生まれますが、その顔が殺された助に生き写しだったため、村人は助の祟りだと噂し、「かさね」と呼びました。
名づけの瞬間から悲劇の反復が予告されているのが、この伝承の恐ろしいところです。
新しい命は祝福より先に、前の死を背負わされる。
名前が生まれ方を決めるというより、死者の影が名を先取りする構図だと言えます。

成長した累もまた、入婿の二代目与右衛門によって正保4年(1647年)に淵へ突き落とされ、命を奪われます。
助と累が同じく水辺で死ぬ反復は、怪談を単発の事件ではなく、家系の内部で連鎖する因果として際立たせます。
ここでの「淵」は単なる地形ではなく、排除された者の死が沈殿する場所です。
助の死が累を生み、累の死がさらに次の怨みを呼ぶ。
その循環こそが、累ヶ淵という地名を物語の骨格にしているのです。

繰り返される淵での死

原伝承では、累は一方的な被害者として語られます。
ただし、その死はそこで終わらず、次代の憑依を呼び込む起点になります。
ここで誤解してはいけないのは、被害がそのまま加害に変わるという単純な図式ではないことです。
むしろ、加害によって押し込められた怨みが、世代を越えて噴き出す。
怪異は暴力の結果として現れ、暴力そのものの正当化には使われません。

この反復に気づくと、地名の累ヶ淵が物語の構造そのものを名指していることに改めて驚かされます。
助も累も淵で死に、しかもその死が次の語りを呼ぶからです。
実在の地と語りの舞台が重なることで、伝承は「どこかで起きた話」ではなく、土地に刻まれた記憶として立ち上がります。
だからこそこの怪談は、ただ怖いだけでは終わりません。
人が人を追い詰めた結果、土地の名にまで悲劇が染み込んでしまう、その重さを読者に見せる物語なのです。

祐天上人による死霊解脱:寛文12年の憑依事件

寛文12年1月(1672年)、羽生村の少女・菊に累の怨霊が憑依し、菊の口を借りて加害の非道を訴え、供養を求めました。
ここで語っているのは生者の証言ではなく、死霊そのものです。
怪談の核は、恐怖をあおる異変よりも、死者が自らの苦しみを言葉にして現前する点にあります。
さらにこの事件には、飯沼の弘経寺遊獄庵に滞在していた所化の祐天上人が関わり、物語は伝承であると同時に、実在の高僧が介在する記録へと厚みを増しています。

少女・菊への憑依と訴え

累が菊に取り憑いた場面は、単なる怪異の見せ場ではありません。
菊の身体は、死んだ側の声をこの世へ通す媒体になっており、訴えの内容がそのまま過去の暴力を暴き出します。
累はただ苦しみを叫ぶのではなく、誰に何をされたのかを明らかにし、供養によってようやく苦界から離れようとします。
『口を借りて死者が語る』という形式は各地の憑依譚にも見られますが、累ヶ淵では告発と救済が切れ目なく結びついているのが際立ちます。

「江戸のエクソシスト」祐天上人とは

事態を聞きつけた祐天上人は、飯沼の弘経寺遊獄庵に滞在していた所化でした。
寛永14年(1637年)から享保3年(1718年)まで生き、のちに増上寺36世法主・大僧正にまで昇る実在の高僧である以上、この怪談は架空の霊験譚だけでは終わりません。
後年に5代将軍綱吉や生母桂昌院の帰依を受けた事実を踏まえると、祐天が当時から霊的・宗教的な重みを持つ人物として見なされていたことがよくわかります。
飯沼弘経寺遊獄庵の祐天上人を物語に組み込むことで、累の事件は地域伝承を超え、江戸社会に通じる重大事へと引き上げられています。

十念と戒名による解脱

祐天は念仏の力でまず累を解脱に導きますが、そこで話は終わりません。
菊に再び別の霊が現れ、問いただすと、それは累より前に殺された助の霊でした。
古老の証言によって累と助の経緯が結びつくと、隠れていた最初の加害が露わになります。
ここで重要なのは、怨霊が増えていくのではなく、被害の連鎖が順に照らし出されることです。

祐天は助にも十念を授け、戒名を与えて解脱させました。
二つの怨念をともに鎮めるこの手順は、怪異を力でねじ伏せるのではなく、念仏によって救済へ転じる仏教説話の骨格そのものです。
怨霊を退治するより、死者が成仏する道を開く。
その発想があるからこそ、累ヶ淵の物語は単なる怪談ではなく、救いの物語として読まれてきたのでしょう。

『死霊解脱物語聞書』:怪談を広めた1690年の書

『死霊解脱物語聞書』は、元禄3年(1690年)に江戸で出版された仮名草子で、累ヶ淵の怪異を全国へ押し広げた起点にあたります。
口承の怖い話が、そのままではなく活字のかたちで固定され、時代をまたいで流通するようになった点が、この一冊のいちばんの価値です。
しかも本書は、恐怖を売るだけの怪談ではなく、浄土宗の立場から念仏称名による救済を説く勧化本として組み立てられていました。

仮名草子・勧化本としての性格

この本の特徴は、仮名草子として読める親しみやすさと、勧化本としての教化性が同居していることです。
著者は作中で自らを浄土宗の僧らしき「残寿」と名乗り、羽生村で約60年にわたって続いた子殺し・妻殺しの因果を、親子三代に及ぶ業の連鎖として描きます。
題材だけ見れば凄惨ですが、狙いは怪異の刺激ではなく、読者に仏教的な因果を理解させることにあるのです。

勧化本という体裁を踏まえて読むと、恐怖場面の合間に念仏の功徳が置かれている構成の意味がはっきりします。
怖がらせる場面と救済を説く場面が交互に現れるため、当時の出版が娯楽と宗教教化を兼ねていたことが実感しやすいでしょう。
怪談を「読む」体験そのものが、信仰の入口にもなっていたわけです。

怨霊譚を救済の物語として読む

『死霊解脱物語聞書』の核心は、怨霊譚を最終的に救済へ回収する点にあります。
羽生村の惨事は、単なる猟奇ではなく、過去の罪が現在の災いを呼び、さらに次代へと引き継がれるという筋立てで整理されます。
そして祐天の念仏称名による解脱へ収束することで、恐怖は放置されず、宗教的な意味づけを与えられるのです。

ここで重要なのは、読者が「怖い話」を通じて、救いの論理まで一緒に受け取る仕組みです。
純粋な怪談であれば怪異の不気味さが余韻として残りますが、本書ではその余韻が念仏の効能に向け直されます。
原典に当たると、後世の脚色で派手になった部分と、初出からあった骨格とを腑分けでき、伝承研究の出発点として外せない一冊だと確認できます。

後世への影響の起点

この本がベストセラーとなったことは、累物の系譜を考えるうえで決定的です。
後の歌舞伎『色彩間苅豆』や曲亭馬琴の翻案、円朝『真景累ヶ淵』は、いずれもこの物語の骨格を引き継ぎながら、それぞれの時代の表現へ作り替えました。
つまり『死霊解脱物語聞書』は、単に古い怪談の一つではなく、怪談が文献として固定化され、再生産される回路の起点になったのです。

派生作品を追う前に、この原典の位置を押さえておくと理解がずっと楽になります。
どこまでが1690年の『死霊解脱物語聞書』にあり、どこからが後世の加筆や脚色なのかを見分けられるからです。
怪談の広まり方をたどるなら、まずこの本から見るのがおすすめです。

歌舞伎『色彩間苅豆』:舞踊化された累

『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』は、四代目鶴屋南北が文政6年(1823年)に成立させた清元舞踊劇で、累伝説が歌舞伎の舞台上でどのように変形したかを知るうえで重要な作品です。
通称『かさね』として親しまれ、原伝承から約150年を経て、物語は説話から舞踊へと再構成されました。
ここで注目したいのは、怪談が単に上演されたのではなく、観客が舞台の所作と音楽で「恐怖」を受け取る形式に作り替えられている点でしょう。

鶴屋南北と「累物」の系譜

四代目鶴屋南北作・文政6年(1823年)成立の『色彩間苅豆』は、累を題材にした歌舞伎の代表格であり、のちに『累物(かさねもの)』と総称される作品群の中心に置かれます。
原話の累ヶ淵が、江戸後期の劇場文化のなかでこれほど根強く生き残ったのは、単なる怪談としてではなく、嫉妬、因果、執着といった感情を舞台向きに濃縮できたからです。
長く中絶したのちに大正期に復活上演されたことも、累が時代を超えて観客を引きつけ続けた事実を示しています。

『累物』という呼び名は、ひとつの作品名ではありません。
累の怨念や姿の変貌を軸に、似た構図の舞台が連なっていく系譜そのものを指しており、伝承が劇場の需要に合わせて反復・変奏されていったことが見えてきます。
つまり累ヶ淵は、説話の終着点ではなく、歌舞伎が怪異を消費し、更新していくための豊かな素材だったのです。

敵同士が恋仲になる悲劇

『色彩間苅豆』の筋立てで面白いのは、与右衛門と累が互いに敵同士でありながら恋仲になり、心中を図る悲劇へ組み替えられている点です。
原伝承では、累の物語は祐天による救済へと向かいますが、舞踊版ではその宗教的な収束が後景に退き、恋と破局が前面に出ます。
ここには、説話をそのまま語るのではなく、舞台でいま目の前に立ち上がる感情へ翻案する南北の劇作術がはっきり表れています。

この改変が重要なのは、恐怖の中心が「怪異そのもの」から「怪異に巻き込まれる人間関係」へ移っているからです。
敵対していた二人が恋に落ちると、観客は単に怪談を眺めるのではなく、引き裂かれた情念の行き先を見届けることになります。
おすすめです、というと軽く聞こえるかもしれませんが、ここには舞台芸能が説話をどう再編するかを読み解く手がかりが詰まっています。

舞踊が描く怨念の表現

見せ場は、累の顔が因果により醜く変貌し、それに怯えた与右衛門が鎌で累を殺める場面です。
舞台写真や映像でこの変化を見ると、文字で読む怨念とは異なる、身体を通した恐怖の表現に圧倒されます。
顔が変わる、その瞬間の間、身のこなし、照明の受け方までが怨念を担い、語り物では届きにくい生々しさを生み出すのです。

ここでは、舞踊であること自体が恐怖の装置になっています。
顔貌の変化が視覚を直撃し、鎌で手を下す所作が因果応報の残酷さを固定するため、観客は理屈より先に身構えさせられるでしょう。
原伝承の祐天による「救済」が舞踊版では後景に退き、悲恋と凄惨な殺害が前景化する改変には、時代ごとの観客が何を怖がり、どの種類の怪異に惹かれたのかがそのまま刻まれています。

落語『真景累ヶ淵』:円朝と「真景」の由来

項目 内容
作品名 『真景累ヶ淵』
作者 初代三遊亭円朝
成立 安政6年(1859年)
構成 全97章の長編怪談噺
題名の由来 「真景」は流行語「神経」をもじった名
命名者 漢学者・信夫恕軒
明治期の流通 明治20〜21年(1887〜1888年)に速記録が『やまと新聞』へ掲載

『真景累ヶ淵』は、初代三遊亭円朝が安政6年(1859年)に生み出した長編怪談噺で、全97章に及ぶ巨大な構成を持ちます。
累ヶ淵の伝承をそのまま語り継ぐのではなく、落語の語りの力で一つの連続した因果劇へ育てたところに、この作品の独自性があります。
さらに題名の「真景」には、文明開化期らしい知的なひねりが込められています。

円朝の創作と長編の構成

『真景累ヶ淵』が近代における最も有名な派生作品とされるのは、初代三遊亭円朝が原伝承をただ語り直したのではなく、落語として持続する長編へ組み替えたからです。
安政6年(1859年)の作で、円朝最初の創作物とされる点も見逃せません。
全97章という長さは、怪談を一夜の話から、人物の因果や欲望が何層にも重なる物語へ押し広げた証拠でしょう。

物語の前半では、旗本・深見新左衛門が鍼医・皆川宗悦を斬殺したことが出発点になり、両家の子孫が次々と破滅していきます。
後半では横恋慕に端を発する殺生と敵討ちが絡み、恐怖が単発の怪異ではなく、人の行いが呼び込む連鎖として描かれます。
原伝承の累の名を冠しながら、円朝はそこに明確な因果の筋を与えたのです。

「真景」=「神経」という言葉遊び

題名の『真景』は、当時「幽霊は神経のせい」という説が広まり、「神経」が流行語化していた空気を踏まえた言葉遊びです。
命名は円朝と懇意だった漢学者・信夫恕軒とされ、単なるしゃれにとどまりません。
怪談を超自然のものとして固定せず、心身の働きや近代的な知の枠組みの中で捉え直そうとする文明開化期の感覚が、題名一つに凝縮されています。

「真景」が「神経」の地口だとわかると、怪異を心の産物として相対化しようとした時代の空気が、作品の入口でまず示されているのだと気づかされます。
しかもその効果は、怖さを弱めるためではなく、むしろ怪談を新しい視点で読む余地を開くところにあります。
題名の時点で、円朝はすでに近代の観客と勝負していたのでしょう。

速記による出版と現代の高座

『真景累ヶ淵』は全編を通すと15日を要する大作であり、そのまま上演する機会は限られます。
そのため現代の高座では、『宗悦殺し』や『豊志賀の死』のような印象的な場面を抜き出して演じるのが通例です。
とりわけ『豊志賀の死』は、長編の一部でありながら独立した名作として完結しており、聴く側に円朝の構成力の高さを強く印象づけます。
おすすめです。

明治20〜21年(1887〜1888年)には速記録が『やまと新聞』に掲載され、単行本としても広く読まれました。
口承の落語が新聞と出版を通じて活字化されることで、寄席の外にも読者を獲得したわけです。
ここに、怪談が口演芸から近代的な読書文化へ移っていく流れがはっきり見えてきます。
聴いてみてください。

ゆかりの地・法蔵寺:累の墓と現存する遺物

法蔵寺の境内には、累の墓と、祐天ゆかりの数珠・累曼陀羅・木像が並び、累ヶ淵の物語が机上の怪談では終わらないことを示しています。
茨城県常総市羽生町の浄土宗法蔵寺は、伝承を弔い、遺物を守り、土地の記憶を今に伝える場です。
墓碑や伝来品を前にすると、口承、出版、舞台と形を変えた話の中心が、この寺と鬼怒川沿岸に根を持っているとわかります。

法蔵寺と累の墓

法蔵寺は茨城県常総市羽生町724番地にある浄土宗の寺で、ここに累を弔った墓が残されています。
しかもこの墓は常総市指定文化財第23号で、昭和59年/1984年3月15日に指定されました。
怪談の登場人物の墓が公的に文化財として認められている例は多くなく、累の物語が単なる創作ではなく、地域の弔いと結びついた土地の歴史として扱われてきたことが見えてきます。

市指定文化財の標示とともに墓の前に立つと、累の話がどこか遠い昔話ではなく、実際にこの場所から広がったのだと実感しやすいでしょう。
物語は本来、語り継がれるうちに輪郭が変わりますが、墓という一点が残ることで、口承と出版と舞台のあいだに一本の線が通ります。
累をめぐる伝承を考えるうえで、この墓は起点であり、同時に記憶を受け継ぐ装置でもあるのです。

祐天ゆかりの数珠・累曼陀羅・木像

境内には、祐天が死霊解脱の供養に用いたと伝わる数珠・累曼陀羅・木像などが保存されています。
ここで注目したいのは、墓だけでなく供養に関わる品々が残っている点です。
つまり法蔵寺では、物語の人物を弔う行為そのものが、具体的な道具と結びついた形で伝えられているわけです。
怪談はしばしば話芸として消費されますが、ここでは供養の実践が遺物として手触りを持っています。

現地で遺物の伝来を確かめると、累の話が単なる作り話ではなく、地域の人々が長く弔い続けてきた記憶の集積だと見えてきます。
数珠や曼陀羅は、文献に書かれた出来事を補強する証拠というより、信仰と伝承が同じ場で重なってきた痕跡と見るほうがしっくりきます。
伝承を「語られた話」としてだけでなく、「守られてきた物」として読むと、怪談の性格はずっと立体的になるのです。

鬼怒川沿岸の累ヶ淵を訪ねる

累ヶ淵は物語上の舞台であると同時に、今も実在の場所として訪ねられます。
法蔵寺の裏手に続く鬼怒川沿岸が累ヶ淵とされ、物語の舞台と土地がそのままつながっているのが大きな特徴です。
伝承の現場を歩くと、書物の中の地名が、川の流れや岸辺の地形と結びついて立ち上がってくる。
そこに、この怪談が長く語り継がれてきた理由があります。

アクセスの目安は、関東鉄道常総線・水海道駅からタクシーで約15分です。
訪ねるなら、寺院の参拝マナーを守りながら、墓と遺物、そして背後の鬼怒川沿岸をあわせて見てみましょう。
物語を知るだけでなく、土地の空気まで確かめてみてください。
累ヶ淵は、読む場所であると同時に、歩いて確かめる場所でもあります。

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遠野 嘉人

民俗学を専攻し、日本各地の妖怪伝承をフィールドワークと古典文献の両面から研究。『今昔物語集』『画図百鬼夜行』等の原典にあたった解説を信条とします。

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